水緒「先輩……、じゃない……」
彼の姿形は先輩と瓜二つ。他人の空似だなんて思えない。
けれど、私の心は気づいていた。
『彼』は私の知らない人だ、と。
水緒「あなたは、誰なの……?」
颯「…………」
青年はしばらく無言のまま、私を見つめていたけれど。
やがて、小さく笑った。
颯「俺に話しかけてくるなんて、随分な物好き、だな……」
水緒「――――」
胸の鼓動が大きく跳ねた。
こんなに綺麗な、透き通るような微笑みを、私は生まれて初めて目にしたから。
水緒「先輩……、じゃない……」
彼の姿形は先輩と瓜二つ。他人の空似だなんて思えない。
けれど、私の心は気づいていた。
『彼』は私の知らない人だ、と。
水緒「あなたは、誰なの……?」
颯「…………」
青年はしばらく無言のまま、私を見つめていたけれど。
やがて、小さく笑った。
颯「俺に話しかけてくるなんて、随分な物好き、だな……」
水緒「――――」
胸の鼓動が大きく跳ねた。
こんなに綺麗な、透き通るような微笑みを、私は生まれて初めて目にしたから。
常磐「……水緒……」
水緒「っ!?」
気のせいかもしれない。
それくらい微かな囁きだった。
……でも、今のは……。
水緒「――――」
頭の中が、真っ白になった。
自分の心臓の音がうるさくて、思考がちっともまとまらない。
どうして、彼が私の名前を……?
私が凍りついたようにその場から動けずにいると、やがて――。
常磐「ん……?」
水緒「!」
彼が少し身動ぎしたかと思うと、ゆっくりとその双眸が開かれた。
奏太「水緒ちゃん。オレと付き合わない?」
水緒「はい……?」
声が変に上擦った。
言葉の意味が理解できない。
頭の中が真っ白になってしまい、私はしばし、完全に硬直した。
奏太「……ちゃん、水緒ちゃーん。大丈夫? 向こうの世界、行っちゃってない?」
水緒「え!? え、は、はい……。大丈夫です、たぶん……」
奏太「うんうん。その『はい』って、お返事だと思っていいの?」
水緒「…………」
水緒「え!?」
奏太「聞かなかったフリして流す、なんて冷たい真似させないよ?『オレと付き合わない?』」
宵宮「……初めまして、水緒さん。あなたはこちらの世界に来てから、まだ日も浅いようですね」
水緒「えっ……?」
宵宮「そんなあなたが、どうして颯くんとお知り合いなのか伺っても?」
宵宮「……ああ、失礼。私は宵宮です。彼の先生、のような立場でしょうか」
水緒「先生……」
言われてみれば、目の前にいる男性は、『先生』らしい風格があった。
迷い惑っている私のことさえ、答えに導いてくれそうな……。
月白「僕は狐で、次は神になったから、妖よりも霊よりも、人間に疎いんだ」
水緒「…………」
水緒「だから、私がどうして困っているか、わからないとでも言いたいの……?」
私の問いを肯定するように、にっこりと月白は笑った。
……絶対わかっているくせに、わかっていないふりをしている。
月白「君を見ていると楽しいよ、水緒。僕をもっと夢中にさせてほしいな」
月白「叶うなら永遠に、飽きずに君を見つめていられるように……」
水緒「え……?」
唐突に、光が瞬いた。
楼主の糸が、糸であったことすらわからないくらい粉微塵に裁断されて、ぱらぱらと地面に落ちていく。
颯「……相手が悪い。俺に、糸で勝負を挑むなんて」
珍しく笑みを含んだ颯の声音が聞こえ、私は反射的に彼を見上げていた。
颯の手には、煌めく糸があった。
彼の指先が空をなぞったかと思うと一筋、また一筋と光が奔る。
速い。
すべてを視認しきれない。
まるで光の曲線が、颯の周囲を舞っているかのようだった。
颯の糸が、楼主の糸を断ち切ったのだ。その煌めく糸は美しいばかりでなく、ひどく鋭利な刃でもあるのだろう。
颯「これが、音を糸として操る木魂の業」
彼の糸は意志を持っているかのように自在に動き、楼主の四肢を絡め取って捕らえる。
奏太「ぷ……、あははははは!」
水緒「奏太くん……」
奏太くんが、笑っている。
すごく無邪気に、すごく楽しそうに。
とても自然で、寛いでいて、幸せそう。
……こんな表情、初めて見た……。
どんな建前にも隠されていない、彼の素顔が覗いているようだった。
奏太「あー、もう、笑った笑った」
ひとしきり笑った奏太くんは、口元が緩んで仕方ないという風情で小さくかぶりを振った。
奏太「あ……。ごめんごめん。別にキミがおかしかったわけじゃないよ? あのふたりが面白すぎて」
奏太くん……。たくさん笑いすぎて、ちょっと涙目になっている。
それを誤魔化すように目を瞬くと、彼は、はあ、と息を吐き出した。
奏太「それに、なんていうか……。こんなふうに友達とはしゃぐの、久し振りだなあと思ってね」
奏太「もちろん毎日楽しく過ごしてるし、仲間内でじゃれ合ってるけど――」
奏太「ここまで楽しく騒げる機会って、本気で久々でしょ」
そして彼は満面の笑顔から、どこか真剣な表情になる。
奏太「オレ、現世に友達はたくさんいたよ。現世での毎日をむなしいものだとか、思ったこともない……」
奏太「けど、こっちでの充実した毎日は、現世では絶対に得られないものでしょ」
奏太「だから、最近よく思うんだよね。……オレの居場所はここにあるって」
美しい青年がゆったりと腰を下ろし、雀を愛でていた。
神社の境内に降り注ぐ、静謐な星明かりを受けて金糸の髪が煌めいている。
誰に教えられたわけでもないのに、彼が『何』なのか、すぐにわかった。
そこに在るのは、あまりにも神聖な、決して侵してはいけない魂――。
ああ……。私のよく知る現世の神社も、そういえば、稲荷神社だった。
狐の耳と、狐の尾を持つ、美しき青年。
彼は、『神』だ。
月白「ふぅん……。面白い話だね」
呟くような、囁くような声で、彼は雀の囀りに応えている。
雀は人の言葉を発さないけれど、彼とは会話が成立しているようだ。
月白「何か掴めたら、またおいで。もう少し事が進んだら――」
月白「僕のほうからきちんと彼らに、話を通しておくから、ね」
雀は了解したとばかりに、一際高く、朗らかに囀った。
月白「それで……。どうして、ひとりで来たの?」
水緒「!」
不意に、青年の言葉は私へ向けられた。
彼は石段を上ってきた私のことを、既に視界の端に捉えていたのだろう。
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私はどうすれば良かったのか。これから何をすればいいのか。
頭の中でいろんな想いが、ぐるぐると渦巻いてしまう。
……そんなとき、ふと私の頭に何か、柔らかく触れるものがあった。
颯はとても優しい手つきで、私の頭をぽんぽんと撫でている。
水緒「颯……」
思わず顔を上げた私に、颯は微笑みかけてくれた。
颯「水緒。俺は、おまえが考えてること、全部わかるわけじゃないけど……」
颯「おまえがいつも頑張ってるってこと、俺はよく知ってる。……ずっと、おまえを見てたから」
颯「だから、そんなに落ち込まなくていい。おまえはおまえのままでいいんだから」
水緒「…………」
その言葉も、その眼差しも、とても優しくて……。
私は、乱れていた自分の心が、落ち着いていくのを感じる。
私はいつも、自分にできることをしたいと願ってきた。
その思いはこれからも変わらない。
何もかも完璧にこなせるわけではないけれど、できるだけのことはしたいと思う。
水緒「ありがとう、颯。……もう大丈夫だよ」
改めて自分の心に向き合えたから、私は不安を捨てることができた。
これも、すべて颯のおかげだ。
颯「……良かった。やっぱり俺は、笑っているほうが好きだ」
颯は安堵したように息を吐くと、嬉しそうに笑みを深めた。
その真っ直ぐな言葉に、思わず胸が高鳴ったような気がする。
常磐「……呼ばれたかと思って来てみりゃ、何してやがんだ、てめえら」
妖怪たちのけたたましい笑い声の中、凛、と。
まるで闇を裂く光のように鮮烈な、怒りを内包した低い声が響く。
声の主は、私を取り囲む妖怪たちを、容赦なく蹴倒した。
妖怪「うぎゃっ!?」
妖怪たちは蛙が潰れたような声を上げ、黒い靴底に押さえつけられたまま身動きもできずにいる。
細い脚に込められている力は、傍目から感じられる強さを越えているようだ。
常磐「……馬鹿が。よりによって、こんな場所に来やがって……」
常磐「ここらの連中は気性が荒い。迷子の小娘なんざ殺されたって文句言えねぇぞ」
――きっと周囲では今も妖怪たちが、何か騒いでいるはずだと思うのに。
何故だか、今の私の耳には彼の声しか聴こえていなかった。
彼が発する抗いがたい魔性に、魅せられていたのかもしれない。
今は彼から、目が離せない――。
常磐「おまえがなに馬鹿なこと考えて、んな場所に来やがったのかなんて、いちいち訊いてやる気はねえよ」
常磐「いつまでもボサッとしてんじゃねえ。馬鹿でも馬鹿なりに、できることがあんだろ?」
ちゃり、と微かな音がした。
彼の腰に括られた金の懐中時計が、揺れていた。
常磐「死にたくなけりゃ――走れ」
私に腕を伸ばしたかと思うと、ぐっと身体が引き寄せられた。
水緒「え……、えっ?」
突然の接触と、近くなった距離に、私は顔を赤くしたまま戸惑う。
水緒「あ、あの、奏太くん……!」
奏太「照れることないのに。オレたち、両想いなんでしょ?」
水緒「そ、そうだけど……!」
事もなげに告げられた言葉に、耳まで真っ赤に染まるのを感じた。
ノリが些か軽薄なのではないかと訴えたいという思いもあった。けれど……。
言葉が見つからずに慌てる私を、奏太くんは愛おしげな眼差しで見つめている。
彼が私に向けてくれる想いには、浮ついたところなんてなかった。
奏太「……大好きだよ」
囁くような声と共に、さらに距離が詰められていく。
水緒「っ……!」
恥ずかしさが限界を超えてしまう。
近づいてくる彼の顔を直視できず、私は咄嗟に目を閉じてしまった。
唇に、柔らかなものが触れる。
心臓が痛いくらいに高鳴った。
触れたかと思えばすぐに離れて、またすぐに触れる。
まるで唇を唇で愛撫するような、啄むようなキスを与えられる。
自分でもよくわからないけれど、ずるい、と思ってしまった。
私がこんなに緊張しているのに、彼は素直にこのキスを楽しんでいるかのようだったから。
宵宮「理由は、まだわかりませんが……。こんなに心が動くのは、あなたの前にいるときだけです」
先生は、そっと自分の胸に手を当てた。
宵宮「嬉しいと思うのも、哀しいと思うのも。あなたを見つめているときばかりです」
彼は微かに笑みを浮かべた。
いつもの硬質な眼差しに比べて、今は、とても柔らかな表情で私を見つめてくれている。
宵宮「水緒さん、私は――」
宵宮先生は躊躇うように目を伏せた。
そんな先生の様子があまりに弱々しく悲しげで……。
私は思わず、手を伸ばしてしまう。
水緒「! あ……」
何をしようとしていたのだろう。
私は自分の行動に自分で驚いて、彼に触れるより先に、手を止めた。
自分は、何をしようとしていたのか。
宵宮先生に……。その心に触れたいと思ってしまった。
伸ばしたその手を宙で止めたまま、どうしてそう思うのかと自問する。
不意に、行き場をなくしたその手を、宵宮先生が取った。
水緒「先生……」
宵宮「水緒さん……」
私の手を握り締め、私の瞳を見つめ、先生は何事かを言いかける。
そして、彼は何か口にするより早く、私の身体を強引に抱き寄せていた。
水緒「!」
きつくきつく抱き締められ、私は思わず、声を失っていた。
宵宮「私は自ら、『自分』を失くそうとしていたのかもしれません」
耳元に、切なげな彼の声が聞こえる。
宵宮「悲しみと怒りから目を背け、人間に――現世に焦がれながらも、叶わないからとすべてを諦めて」
彼の感情が伝わってくる。
私が、我知らず彼に触れたいと望んでしまったように――。
彼もまた、私を望んでくれている。
月白「ああ……、困ったな。僕はきっと、君の我儘なら聞かずにいられない……」
吐息と共に洩らされた言葉にも、堪えきれず零れた彼の想いが溢れるほど滲んでいた。
蕩けるように甘い眼差しに、眩暈がする。
月白「ねえ、水緒。君は僕を愛している?」
水緒「っ……」
彼の言葉に、眼差しに晒されていると上手く呼吸ができなくて……。
私は逃げるように目を伏せてしまう。
……心臓が壊れてしまいそう。
月白の顔を直視し続けるのが怖い。自分の想いが、抑えられなくなりそう。
本当に、どうにかなってしまいそう。
月白「駄目だよ、水緒。……逃げないで、ちゃんと僕を見て」
いつもと同じく、からかうような口調で月白は言った。
きっと、顔を上げて確かめてみれば、その表情もどこか人を食ったように不遜なものなのだろう。
けれど……。
今は彼の声だけを聴いているから、余計にはっきりとわかる気がした。
その声は、嘘偽りなく優しい。
それは甘い囁きそのものだった。